人とシェアーする事 大学予備校の話
2023/12/29
人とシェアーする事 大学予備校の話
もう、48年も前の話になります。私は、高校2年生3学期。茗荷谷にある私立の高等学校に通っていました。私は、姉の選んだ音大のピアノ科への道を声楽科に換えて受験しようと思っていました。姉は私の思いを聞いた後、自分が行く事をためらい、結果として思う大学の受験さえ拒まれたピアノ教室の先生に師事し続けてしまった自分の失敗談を話してくれました。そして、『基礎の音楽能力を高める為に尚美という音楽大学入学の為の予備校があるので、行ってごらん。』と勧めてくれました。
幸いな事に、その予備校は茗荷谷の隣の駅の後楽園に位置し、帰りは学校近くの春日という駅から自宅の北千住まで乗り換え一つで通える場所にありました。中途の時期でも入学を許可して頂き、直ぐに通い始めました。確か、週3回、夕方から3時間ずつ通っていたと思います。4月に入り、高校3年生になり、受験勉強は本格化して来ました。女子校だったので、音大受験をしたい同級生も結構いました。私が学校から尚美に通っている事も同じ道を志す同級生の耳に入ったようでした。夕方授業終了後、友達に『バイバイ!今日は、尚美によってから帰るんだ。』なんて大きな声で話している位だから当たり前です。そんな私に、すごく優秀で、この子は合格間違いなしの声楽科志望の同級生が声を掛けて来ました。『どんな所なの?』 私は、『ソルフェイジュを中心に、其々の志望の科の先生にも希望すれば付いてレッスンを受けられる所だよ。私は、レッスンはそこでは受けていないけれど、新曲(新しく見た楽譜に1分間目を通してアカペラで歌う。)・調音(ピアノで弾かれた曲をその場で五線紙に記載する。)のソルフェイジュの授業を週3回受けているの。』授業料や授業時間etc.etc.包み隠さずお話しました。彼女は、『一緒に行っても良い?』と聞きました。『当り前じゃん!たった一人だけ制服姿で他の浪人生の人達と授業受けてるんだよ。聞けない事や心細い事が一杯あって・・・仲間がいてくれた方が良いに決まっているじゃん!』と答えました。彼女は自宅に戻り、お母様に通いたい旨お話した様です。正直、授業料だって馬鹿になりません。彼女は私よりもっと良い大学を狙っていたので、歌の先生のレッスン料も大変だったと思うのです。でも、彼女はとても真剣で、お母様も二つ返事で了解され、翌日私と学校を訪れ、直ぐに入学しました。私のもっと近しい友人も遅れてはならぬとその後から入学しました。3人で、同じ制服を着てほぼ横並びで席を取り授業を受けていたのですから、教えている先生も圧倒されたと思います。その3人が、殆どどうしても休まなければいけない事がない限り、欠席なしで通い続けるのですから、先生方のやる気もきっと強まったのではないかと思います。仲間が3人に増えた事で予備校の日の歌の練習時間と練習の場所に困っていた私は、学校の音楽の先生にお願いし、体育館のピアノを3人に予備校の日だけ通う時間まで貸して下さるようにお願いした所、先生が教務部長にも掛け合って下さり、実現しました。3人で伴奏と独唱を代わるがわるにやったり、課題のピアノ曲を練習したり、一気に受験勉強が楽しくなりました。授業迄にお腹も空いてしまうので、予備校近くの喫茶店で食事をしたり、本当に楽しかったです。受験までの期間は、あっという間に過ぎました。
予備校仲間3人は、同じ大学を受験しました。結果は、予想とは真逆でした。3番手の私は合格。1番手の彼女は補欠。2番手の彼女は不合格でした。高校の友人も学年の先生達も『おめでとう!』と声は掛けてくれますが、心の声は『信じられない!』という感じでした。私自身がそういう思いだったのですから当然です。補欠の彼女は、お父様に泣きながら訴え、その費用を出してもらえるように言ったそうです。お母様も傍にいて、声楽科に行かしてあげてくれと言って下さったそうです。どうするのか心配していた私に『声楽科に通う事にした。』と話してくれました。その時、助け舟を出してくれたお母様が、お父様とお話が済んだ後で『**さんは、自分の損も顧みず貴女に情報提供してくれた。だから、親に心配かけない結果を得る事が出来たんだよ。彼女が合格するのは当り前!』と彼女をたしなめたそうです。その事を泣きべそをかきながら私に伝えてくれました。私は、番狂わせと思っている人達ばかりだったのにそんな風に私を評価してくれた事が凄く嬉しかったです。その時に“人に何かをする事は、必ず自分に良い事になって戻って来るんだ‼“と思いました。それから、47年も経ちましたが、今もその通りだと思っています。
医学の研究の世界等、秘密にしていないと一歩でも遅かったら自分の研究として認められないような世界も確かにありますが、1等賞でなければいけない世界以外では、シェアーにより得られる事が一人で内緒に続けるより良い事があるのではないかと私は思います。
もう、48年も前の話になります。私は、高校2年生3学期。茗荷谷にある私立の高等学校に通っていました。私は、姉の選んだ音大のピアノ科への道を声楽科に換えて受験しようと思っていました。姉は私の思いを聞いた後、自分が行く事をためらい、結果として思う大学の受験さえ拒まれたピアノ教室の先生に師事し続けてしまった自分の失敗談を話してくれました。そして、『基礎の音楽能力を高める為に尚美という音楽大学入学の為の予備校があるので、行ってごらん。』と勧めてくれました。
幸いな事に、その予備校は茗荷谷の隣の駅の後楽園に位置し、帰りは学校近くの春日という駅から自宅の北千住まで乗り換え一つで通える場所にありました。中途の時期でも入学を許可して頂き、直ぐに通い始めました。確か、週3回、夕方から3時間ずつ通っていたと思います。4月に入り、高校3年生になり、受験勉強は本格化して来ました。女子校だったので、音大受験をしたい同級生も結構いました。私が学校から尚美に通っている事も同じ道を志す同級生の耳に入ったようでした。夕方授業終了後、友達に『バイバイ!今日は、尚美によってから帰るんだ。』なんて大きな声で話している位だから当たり前です。そんな私に、すごく優秀で、この子は合格間違いなしの声楽科志望の同級生が声を掛けて来ました。『どんな所なの?』 私は、『ソルフェイジュを中心に、其々の志望の科の先生にも希望すれば付いてレッスンを受けられる所だよ。私は、レッスンはそこでは受けていないけれど、新曲(新しく見た楽譜に1分間目を通してアカペラで歌う。)・調音(ピアノで弾かれた曲をその場で五線紙に記載する。)のソルフェイジュの授業を週3回受けているの。』授業料や授業時間etc.etc.包み隠さずお話しました。彼女は、『一緒に行っても良い?』と聞きました。『当り前じゃん!たった一人だけ制服姿で他の浪人生の人達と授業受けてるんだよ。聞けない事や心細い事が一杯あって・・・仲間がいてくれた方が良いに決まっているじゃん!』と答えました。彼女は自宅に戻り、お母様に通いたい旨お話した様です。正直、授業料だって馬鹿になりません。彼女は私よりもっと良い大学を狙っていたので、歌の先生のレッスン料も大変だったと思うのです。でも、彼女はとても真剣で、お母様も二つ返事で了解され、翌日私と学校を訪れ、直ぐに入学しました。私のもっと近しい友人も遅れてはならぬとその後から入学しました。3人で、同じ制服を着てほぼ横並びで席を取り授業を受けていたのですから、教えている先生も圧倒されたと思います。その3人が、殆どどうしても休まなければいけない事がない限り、欠席なしで通い続けるのですから、先生方のやる気もきっと強まったのではないかと思います。仲間が3人に増えた事で予備校の日の歌の練習時間と練習の場所に困っていた私は、学校の音楽の先生にお願いし、体育館のピアノを3人に予備校の日だけ通う時間まで貸して下さるようにお願いした所、先生が教務部長にも掛け合って下さり、実現しました。3人で伴奏と独唱を代わるがわるにやったり、課題のピアノ曲を練習したり、一気に受験勉強が楽しくなりました。授業迄にお腹も空いてしまうので、予備校近くの喫茶店で食事をしたり、本当に楽しかったです。受験までの期間は、あっという間に過ぎました。
予備校仲間3人は、同じ大学を受験しました。結果は、予想とは真逆でした。3番手の私は合格。1番手の彼女は補欠。2番手の彼女は不合格でした。高校の友人も学年の先生達も『おめでとう!』と声は掛けてくれますが、心の声は『信じられない!』という感じでした。私自身がそういう思いだったのですから当然です。補欠の彼女は、お父様に泣きながら訴え、その費用を出してもらえるように言ったそうです。お母様も傍にいて、声楽科に行かしてあげてくれと言って下さったそうです。どうするのか心配していた私に『声楽科に通う事にした。』と話してくれました。その時、助け舟を出してくれたお母様が、お父様とお話が済んだ後で『**さんは、自分の損も顧みず貴女に情報提供してくれた。だから、親に心配かけない結果を得る事が出来たんだよ。彼女が合格するのは当り前!』と彼女をたしなめたそうです。その事を泣きべそをかきながら私に伝えてくれました。私は、番狂わせと思っている人達ばかりだったのにそんな風に私を評価してくれた事が凄く嬉しかったです。その時に“人に何かをする事は、必ず自分に良い事になって戻って来るんだ‼“と思いました。それから、47年も経ちましたが、今もその通りだと思っています。
医学の研究の世界等、秘密にしていないと一歩でも遅かったら自分の研究として認められないような世界も確かにありますが、1等賞でなければいけない世界以外では、シェアーにより得られる事が一人で内緒に続けるより良い事があるのではないかと私は思います。