育児支援・ひとり親支援・動物愛護活動支援など、元小児科医の経歴を活かし様々なボランティア活動を行います。お気軽にご相談ください。

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我が家 ~私の家を建てることへの思い入れ~序章

2024/04/21

 こうるさバーバのちょこっとコラムも4ヶ月問い合わせ0更新中です。同時に、私の頭の中には私のお伝えしたい思いが一杯で、それをどの様に伝えて行こうかと悩みながらの4ヶ月でした。今、世の中に起こっている事に対するコメント、報道で流れているニュースやコメンテーターの方のコメントに感じた事、街中で会ったり言葉を交わした方に感じた事、私の節約術etc.etc.本当に沢山あります。問い合わせ0の状態が続く中『何方かが見て下さったり、読んで下さったに関わらず、自分の意見をHPを使って発信していこう!』という思いだけで今は書いています。
 書きたい事の一つに『家』について今心の中で叫び続けている思いもまたお伝えしたいと思いました。小さい頃から長く暮らした生家の思い出から1年前にその頃から憧れてきた家作りの思いまで色々書かせて頂こうとおもっています。愚痴や文句も沢山出て来てしまうとは思うのですが、これから家づくりを考える方の参考になればと思っております。
 私は、66年前に都内の下町の商店街で商売をする両親の元に生まれました。同じ様な形の三角屋根の家が壁が擦れ合う様に建てられた家で、10坪に満たない土地の1階は店舗と後方に狭いキッチンとトイレ、2階が昼は食事をしたりテレビを観たり、夜はそこに布団を敷いて眠る。という造りでした。右も左も前も同じような家だったので、何の不思議も不自由さも感じてはいませんでした。幼稚園から帰って来ると店頭に立つ母か父が『お帰りなさい。』と出迎えてくれる家でした。少し商店街から離れた所に住んでいた私の大の遊び友達の家には玄関なるものがあったので、『ウチには玄関がないんだな?』と思っていたくらいでしょうか?大きくなるにつれ、時代の流れの中で父は商売をする土地を広げて行きました。でも、住む為の家は大きくなりませんでした。自宅から少し離れた店舗のある場所の後方には、食事をしたり、休憩が取れる場所などがありましたので、そこで両親いずれか仕事が終わるまで待ち、一緒に帰って生家で休むという生活が続き、年齢が上がるに連れて姉と二人だけで先に帰るという生活が高校卒業まで続きました。中学1年生の夏休みの終わり頃に隣の家から出た火で半焼し、消火の為に掛けられた水でほぼ全ての物が使えなくなってしまった時も、父は別の場所に住居を建てるのではなく、狭い土地に建て直しました。父は、埼玉から東京に一人で上京し、働きながら勉強し、少しばかり貯まったお金で手に入れた我が家への思い入れが強かったのではないかと思います。大学入学と共にその家の前に購入した土地に既に建てられていた木造平屋に私達姉妹だけが移り、両親はそれからも長くその家で暮らしました。
 私は、10回以上の引越しをしましたが、そのスタートはこの時でした。その家には玄関はあったのですが、その扉は格子が沢山入った曇りガラスの扉で、ギシギシと音を立て、ドアのレールからいつ外れてもおかしくないような扉だし、床はコンクリート張り、光も差し込まず、下駄箱もない様な玄関でした。
 それからは、仕事柄、入局した医局からの出張・派遣、医局所属先の変更・病院の転職などで引越しは10回以上に及びました。住む場所は、官舎・アパート・一戸建てetc.etc.様々でした。次に住む場所を確認出来ずに転居前日まで仕事をしていた事もあったので、『こんな筈では・・・』なんて着いて直ぐ荷物の運送をストップしようかと思った場所もありました。でも、そんな場所に7年間も住めたのだから笑っちゃいます。“住めば都”とはよく言ったものだと思いました。
 今回は、住む家の走り出しで終わりになってしまいました。次回は、引っ越しを通じて家造りに関して学べた事や膨らんだ想いをお伝えしたいと思います。

 

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