育児支援・ひとり親支援・動物愛護活動支援など、元小児科医の経歴を活かし様々なボランティア活動を行います。お気軽にご相談ください。

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55歳で亡くなった同期入局の女性を偲んで

2024/10/20

              ~訃報のお知らせに載っている貴女は、本当にもういないのですか?~
 先日、50代の知人が続けて亡くなった事をお伝えしました。つい最近亡くなった女性は、私とは一回りも違う同期入局の仕事仲間でした。同期入局の3人の方から、訃報の知らせが入りました。仕事を始めてから10年目に私は出張先のお話しを蹴って解雇されました。その後は、彼女とお会いしたり、話したり、食事をしたり等全く接触の無い20年間でした。原発巣不明の肺癌で2年間の闘病生活をされていたそうです。結婚をされた事も人伝に聞き、病気であった事は全く知りませんでした。訃報の知らせに戸惑い、自分は何をしたら良いか、知らせを受けて数日経った今も考え通しです。
 あまりにも距離のあった彼女との20年は、通夜・葬儀への出席も躊躇われます。その思いの中で、私なりに彼女と過ごした間の彼女の事を私の言葉でまとめて、伝えて、彼女を偲ぶ事にしました。
 彼女は、私より少しばかり背は高いですが小粒な女性です。決して綺麗とは言えないのですが、とても可愛らしい人で、小さめの目と口元は、いつも笑みが溢れていました。初対面でも話しかけやすい雰囲気の人でした。白衣の下はいつも私服のミニスカート。先輩の先生曰く、『彼女にとっては、あれがユニフォームみたいなんだよね。外で食事したら、着替えて来て、そのスカートは膝下10cmくらいの長めなんだ。どっちかって言うと反対なんじゃない?・・・って思ったんだけど。』と話された事を20年経った今でも忘れません。でも、彼女は決してそのスタイルを崩しませんでした。脚も決して美脚では無いのですが、長い白衣の下は、いつもミニスカートでした。そしてとても似合っていました。一回りも違う私には出来ない事なので、ちょっと羨ましかったです。
 彼女は、小粒なのにその体に秘められた才能やエネルギーは素晴らしいものがありました。勉強家で、厳しい事で有名な女医さんの元で研究にも励み、医学博士にもなりました。臨床でも、研究発表の為にフランス行きの日程があったのに、その時の担当をしていた赤ちゃんの具合が悪く、ギリギリでキャンセル(全額自己負担)。患者様に寄り添いました。私が『良かったの?』と聞くと『仕方ないよ。またチャンスはある。』と笑顔で話してくれました。
 ユニークな才能もあり、研修医は無給なのですが、当直料は少しばかりいただく事が出来ます。時々、外の病院に当直に出向くのですが、当直ノートなる物があったりして、時々尋ねても大丈夫なようにみんなで情報を書き続けるんです。そのノートに書く彼女の申し送り事項が、実にユニーク。患者様や常勤医のイラスト入りで、それがまた良く似ている。『こんなやり取りがあったよー。』と4コマ漫画みたいに書いてくれるんです。お陰で、その病院の当直は遠いし、駅からも歩くんですが、楽しみでした。
 もう一つ、彼女との忘れられない思い出は、研修中に2~3ヶ月短期で行く出張病院での出来事です。私は、彼女の後からその病院に出張だったのですが、交代の前に彼女の送別会と私の歓迎会を兼ねて病院近くのイタリアンレストランで飲み会が催された時の事です。小児病棟のその日夜勤でない看護師さんが沢山(多分全員に近かったと思います。)出席されていました。会も大盛り上がり。記念品には、彼女の為に看護師さんが選んだこれからの盛夏にピッタリの籠製のバッグ。看護師の皆さんが、本当に楽しい仕事期間であった事が想像出来ました。彼女の人間としての魅力なのだと思います。一方で私の終了時と言えば、集まった看護師さんの数は、その時の1/2。レストラン一杯にテーブルが用意された彼女の時とは違って寂しいものでした。決していじけているのではありません。彼女の人間としての魅力をお伝えしたかったのです。私は、その事を出張から戻ってから伝えました。『そんなんじゃないのよ!たまたま暇な時にぶつかっただけよ。』とサラッーと彼女は言ってのけました。私を落ち込ませない気遣いです。若いのにそんな素敵な彼女でした。
   更にもう一つ、出張先で2年が経過すると専門分野へのグループ分けがあります。私は、新生児希望だったのですが、彼女もそうでした。新しいグルーブ員の歓迎会が都内で催されたのですが、毎日の疲れが溜まっていたのでしょうか?私は、少量のお酒に酔ってしまい、トイレに駆け込み嘔吐。戻って来た私の顔色の悪さに皆様がビックリ!会も早めのお開きになってしまった上に、誰が私を送って行くかに彼女は率先して声をあげてくれたのです。全く方向が違うのに、私がその日宿泊する私の実家の駅まで送ってくれたのです。電車で寝込んでしまい、降車駅間近の車内で再び嘔吐。顔色を見て危ないと思った彼女は、手持ちのタオルを素早く出してくれて、車内を汚さずに済み、寝過ごしも無く、降車しました。もちろん彼女は、『家まで送る。』と言ってくれました。でも、彼女はそこから自宅に帰らなければなりません。『もう一度吐いたらスッキリした。大丈夫!』と言ってちょうど入線して来た反対ホームの電車に乗ってもらいました。後日、洗ったタオルと新しいタオルを持ってお詫びに行った私に、『気にしなくて良いのに・・・』と言葉を掛けてくれました。それが、彼女との最後のやり取りだったかも知れません。
 私は、どうしても行きたくない異動先を蹴って医局を解雇されました。それからは、彼女とはなんの連絡も接触もありませんでした。小児科医としてどんな毎日だったのか?何も知りません。少し遅めに結婚された事だけは、同期から聞いていましたが、ご主人様がどんな方だったのか?結婚に至るエピソードなども全く知りません。そして20年経って訃報が別の同期から届きました。もう彼女とはお話し出来ないのです。20年の穴のどこも埋める事は出来ません。亡くなる4日前に彼女のお見舞いに訪れた同期は、『もうお話しも歩く事も出来なかったのに、小児病棟に行きたい!って言ったのよ。』とMailしてくれました。彼女は、最後の最後まで小児科医であり続けました。きっと、私の知らなかった20年間の彼女は、医師として尽力して来たのだと思います。沢山の未練もあって旅立ったのだと思います。お通夜・ご葬儀のお知らせには、着物姿で私が知っている頃より少しお顔が細くなって、すごく綺麗な笑顔の彼女の写真がありました。この人がもういないなんて・・・と思うくらい素敵な笑顔でした。
 もう一度話したかった。と思う事が私には度々あります。そして、今回の彼女の死もそんな思いで一杯です。そう思うなら、お話ししたかった事を、お話ししたい時にする勇気が必要です。彼女のように若くして病に倒れ、道半ばでやりたい事が出来なくなってしまう方は沢山おられると思うのです。でも、亡くなる寸前まで彼女は小児科医であり続けました。そう言う小児科医がいた事を沢山の方に知って頂きたく、この記事を書きました。それを伝える事で、彼女のご冥福を心から祈りたいバーバでした。

 

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