闘って一番になる事への疑問
2025/02/16
~日本の番組では、ピアノもカラオケも闘う番組ばかりにチョッと残念~
~フィギュアスケートでは、一番になる為に加点を得られる演技ばかりが評価される。~
~私はオリンピックでは金メダルを取れなかったけれど、
ミッシェル・クワンの演技が一番好き!~
別の番組を見ているのですが、合間の宣伝で他の番組が結構紹介されます。ここ数日は、放送前のピアノの闘いの番組が放送されました。『一番になる!』ってそんなにすごい事なのでしょうか?たった数秒流れているピアノを弾く場面では、素晴らしいテクニックが披露されていました。私は、『どうしてピアノまで闘わなくちゃ放送にならないんだろう?』と少し残念でなりません。“音楽”って闘うための手段でしょうか?私は、4年間音楽大学にも通いました。学年末の歌やピアノの試験では、点数を付けられ、そこでも自分の成績がいかに人より優っているかをやたら気にする同級生もいました。私は劣等生で、そんな人達と同じ土俵に立てる事なんて全くあり得ませんでしたが、一番に拘る同級生を尊敬する事もできませんでした。『自身が本当に良い歌を心を込めて歌えたか?』その事の方がズーッと大事で、それが一番でも二番でも自分が納得いけば良いのではないか?と思っていました。いつも一番に拘る同級生の歌より、その彼に敵視されて、いつも二番手に甘んじている彼の歌の方が私は好きだった。その彼は、一番の彼の存在を気にしていないおおらかでゆとりのある性格でした。“自分”を持っている彼は素敵でした。
この所のフィギュアスケートの選手権にも同じ思いを感じています。21世紀に入った頃から凄く様変わりした世界の様に思います。技術の進歩も目を見張るものがあると思います。ジャンプの技術は特に目を見張るものがあり、回転数の拡大やその成功率は全く素晴らしいと思います。でも、私は好きじゃない。一番になる為に加点を得られる演技を構成し、それをパーフェクト、もしくはそれに近い状態で演技をするスケーターに魅力を感じなくなりました。今は、選手権の番組を見る事もありません。ニュースで、戦いの結果を知る事はあり、そこで流される短い時間の演技を見させて頂く事はありますが、選手お一人の初めから最後までを見る事は無くなりました。見ていて感動しないし、心が温まる事はないからです。
1998年長野オリンピック女子シングル銀メダリスト。2002年ソルトレークシティオリンピック女子シングル銅メダリスト。5度の世界フィギュアスケート選手権優勝、9度の全米フィギュアスケート選手権優勝したミッシェル・クワンという選手をご存知の方は多いと思います。私は、彼女の演技が大好きでした。今も、どの女子フィギュア選手の演技より彼女の演技が好きです。それでも、オリンピックで金メダルは獲得出来ませんでした。でも、一環としてどんな技術にも勝るとも劣らない美しいスケーティングを見せて下さった方だと思います。音楽に乗って滑る彼女は、何より美しく水の流れの様に穏やかで繊細でした。今は、現役を退いていらっしゃるので、その演技を見る事は出来ませんが、今も彼女が手を広げて白鳥が空を飛ぶ様に演じていた姿が思い出されます。素敵だった。今のスケーターには、ジャンプの凄さに素晴らしさは感じるけれど、目に焼き付いて忘れられないという魅力はありません。本当のフィギュアスケートの素晴らしさはそこにあるんでしょうか?私は、スピードスケートにはない“美しさ”の表現ではないかと思うのですが・・・
一番じゃなくても素敵なもの、素晴らしいものは沢山あります。“一番”というものだけに目を向けるのではなく、“自分はどう評価するか”その事の方がズーッと大切な事の様な気がします。
今日の一番は、明日も一番ではありません。自分が“これだ!”と思ったものは、ズーッと“これだ!”と思うものだと私は思います。一番になった人を探すんじゃなくて、自分が大切に心に留めておきたいものを探しませんか?
本来競争社会ではないものまで競争社会にして、闘いの場を見せて興奮を煽るやり方にはちょっと疑問を唱えたいバーバでした。
~フィギュアスケートでは、一番になる為に加点を得られる演技ばかりが評価される。~
~私はオリンピックでは金メダルを取れなかったけれど、
ミッシェル・クワンの演技が一番好き!~
別の番組を見ているのですが、合間の宣伝で他の番組が結構紹介されます。ここ数日は、放送前のピアノの闘いの番組が放送されました。『一番になる!』ってそんなにすごい事なのでしょうか?たった数秒流れているピアノを弾く場面では、素晴らしいテクニックが披露されていました。私は、『どうしてピアノまで闘わなくちゃ放送にならないんだろう?』と少し残念でなりません。“音楽”って闘うための手段でしょうか?私は、4年間音楽大学にも通いました。学年末の歌やピアノの試験では、点数を付けられ、そこでも自分の成績がいかに人より優っているかをやたら気にする同級生もいました。私は劣等生で、そんな人達と同じ土俵に立てる事なんて全くあり得ませんでしたが、一番に拘る同級生を尊敬する事もできませんでした。『自身が本当に良い歌を心を込めて歌えたか?』その事の方がズーッと大事で、それが一番でも二番でも自分が納得いけば良いのではないか?と思っていました。いつも一番に拘る同級生の歌より、その彼に敵視されて、いつも二番手に甘んじている彼の歌の方が私は好きだった。その彼は、一番の彼の存在を気にしていないおおらかでゆとりのある性格でした。“自分”を持っている彼は素敵でした。
この所のフィギュアスケートの選手権にも同じ思いを感じています。21世紀に入った頃から凄く様変わりした世界の様に思います。技術の進歩も目を見張るものがあると思います。ジャンプの技術は特に目を見張るものがあり、回転数の拡大やその成功率は全く素晴らしいと思います。でも、私は好きじゃない。一番になる為に加点を得られる演技を構成し、それをパーフェクト、もしくはそれに近い状態で演技をするスケーターに魅力を感じなくなりました。今は、選手権の番組を見る事もありません。ニュースで、戦いの結果を知る事はあり、そこで流される短い時間の演技を見させて頂く事はありますが、選手お一人の初めから最後までを見る事は無くなりました。見ていて感動しないし、心が温まる事はないからです。
1998年長野オリンピック女子シングル銀メダリスト。2002年ソルトレークシティオリンピック女子シングル銅メダリスト。5度の世界フィギュアスケート選手権優勝、9度の全米フィギュアスケート選手権優勝したミッシェル・クワンという選手をご存知の方は多いと思います。私は、彼女の演技が大好きでした。今も、どの女子フィギュア選手の演技より彼女の演技が好きです。それでも、オリンピックで金メダルは獲得出来ませんでした。でも、一環としてどんな技術にも勝るとも劣らない美しいスケーティングを見せて下さった方だと思います。音楽に乗って滑る彼女は、何より美しく水の流れの様に穏やかで繊細でした。今は、現役を退いていらっしゃるので、その演技を見る事は出来ませんが、今も彼女が手を広げて白鳥が空を飛ぶ様に演じていた姿が思い出されます。素敵だった。今のスケーターには、ジャンプの凄さに素晴らしさは感じるけれど、目に焼き付いて忘れられないという魅力はありません。本当のフィギュアスケートの素晴らしさはそこにあるんでしょうか?私は、スピードスケートにはない“美しさ”の表現ではないかと思うのですが・・・
一番じゃなくても素敵なもの、素晴らしいものは沢山あります。“一番”というものだけに目を向けるのではなく、“自分はどう評価するか”その事の方がズーッと大切な事の様な気がします。
今日の一番は、明日も一番ではありません。自分が“これだ!”と思ったものは、ズーッと“これだ!”と思うものだと私は思います。一番になった人を探すんじゃなくて、自分が大切に心に留めておきたいものを探しませんか?
本来競争社会ではないものまで競争社会にして、闘いの場を見せて興奮を煽るやり方にはちょっと疑問を唱えたいバーバでした。