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元東宮侍従 浜尾 実氏の“殿下とともに” から 6

2025/03/22

               ~プロポーズに至るまでには沢山の山があり、沢山の方のお力添えもありました。~
           ~でも、一番は殿下が小和田 雅子様と出会った時の思いを貫いた事に他なりません。~
 お二人の出会いは、198610月スペインのエレナ王女をお迎えしての東宮御所のパーティーだったそうです。雅子様は、外交官の一人として出席され、殿下との会話も一言二言程度だった様です。殿下には、強く惹かれる思いがあったのだと思います。約半年後の19874月に高円宮様のご自宅での再会まで長い経過がありました。周囲の方々のセッティングの気遣いもあって実現しました。それから1990年2月20日の殿下の30歳の誕生日の記者会見まで2年間の月日が経過しているのに、殿下は記者からの『理想の女性に巡り逢われましたか?』の質問に『前の記者会見でも話したように、焦らずマイペースでやっていきたいと考えています。理想の女性には会えたかもしれないし、会えなかったかもしれない。』と意中の方の存在を思わせる発言はなさっていらっしゃいません。殿下も浜尾氏も出会いそのものが大切なのではなく、出会いからの歩み“プロセス”の大切さを述べられています。殿下は、出会いの時から約3年6ヶ月の経過の中で、雅子さまへの思いを温めて来られたのです。浜尾氏は、『殿下はそのお気持ちを、ゆっくりと、しかし確実に一歩一歩山を登る様にして、ご結婚までに高めていかれた。』と書いていらっしゃいます。
 更に時は流れて、いつのご発言だったかは定かではないのですが、ご婚約に向けて大きく前進したのは、殿下の『小和田さんではいけないのですか?』の宮内庁内部への発言があったからの様です。記者会見から更に2年6ヶ月後にご公務の合間を縫っては、専用のプッシュホンで雅子様に『とにかくあって頂きたい。』と連絡を取り続け、8月に再会。プロポーズは、更に2ヶ月後の10月、あの余りにも有名になってしまった場所、新浜鴨場でした。プロポーズの言葉は、『私と結婚していただけますか?』という率直なものでしたが、当日の雅子様のお返事は、『お断りする事があっても構わないでしょうか?お断りする場合を含めて、はっきりご返事致します。』とのお答えでした。雅子様のお母様がご婚約内定の報道後、インタビューに答えられていますが、雅子様はお返事に大変迷われて体調を崩し、風邪を引かれ、その回復に長い時間を要したとお話しされていました。全く違う世界に身を投じる雅子様にとっては、すでに外交官として充実された日々を送っていらしたのですから、躊躇いや不安は当然の事だったと浜尾氏も述べられています。はっきりしたお返事をなさるまで、一度は辞退の申し出もあった様ですが、それでも殿下は『あなたが納得できるまで、私は待ちます。』と雅子様への揺るぎない思いを貫かれました。浜尾氏は、“納得”の言葉に殿下のお人柄や結婚観が全て表れていると述べています。殿下は、あくまでも雅子様の意思を尊重し、決して悪戯に焦る事なく、最後の決断は雅子様に委ねる立場を取り、自らの意志によって結婚に望める様になるまで待ち続けられたのです。殿下の母である上皇后様は、ご婚約の記者会見で“両性の合意の元・・・”と互いの意志を尊重し、上皇様と自身のご婚約が成立した事を述べられました。殿下もまたお母様のおっしゃった事を大切にされ、ご自身の思いだけではなく、雅子様の結婚へのご意志を尊重されたのだと思います。
 雅子様は、同年の1212日に東宮御所を訪れ、プロポーズ承諾の意を殿下に伝えられました。翌年の19931月6日に皇太子妃に小和田雅子様が内定した事を伝える報道が各局で流されました。実に出会いから6年と数ヶ月。その間に、雅子様は1988年から2年間イギリスのオックスフォードにも留学されており、報道の過密な状況に『勉強の妨げになるので、やめて頂きたい。』とも発言され、ご自身の意志は、外交官としての仕事を全うされる思いが強かったのではないかと思います。イギリスまで追いかけてきての報道の過密さには身近な方にも『プロポーズをされたわけでもないのに・・・』と嘆かれていらしたとその当時私は耳にした覚えがあります。
 この長い年月の経過を考えた時、私はほぼ同世代でこの間どんな事をしていたのだろうかと自分を振り返りました。1986年の頃私は28歳で、最後の大学に行こうと決断し勉強を開始した時でした。その年度の受験には思いが叶わず、もう一度チャレンジし、1988年の春に合格し、学生に戻りました。ご婚約の発表があった年には5年生になっていたのですが、私的な事で痛手を受け、痛手を受けて直ぐの年度末の試験には38℃以上の発熱の中点滴を受けながら試験を受ける始末でした。入学した時に、勉強をさせてくれる両親に恥ずかしくない生き方をしたいと思っていたのに、この年の成績は自己最低の結果に終わってしまいました。学生としての最終年度が始まって間もなく、199369日に殿下と雅子様のご婚礼の儀が執り行われました。私はまだ傷心の心の状態であったのですが、お二人のご結婚の報道をずーっと拝見させて頂いていました。お二人のお幸せな姿が見たかった。十二単の雅子様のお姿が見たかった。ローブ・デコルテ姿の雅子様も見たかった。お二人でオープンカーに乗ってのパレードも見たかった。拝見しながら、冷えていた心が何故だか温かくなり、氷の様に冷たくなっていた心が溶け出し、沈んでいた気持ちがフーッと浮いてくるのを感じました。数時間テレビを見ながら、また前を見て歩き出せそうな思いになりました。
 殿下の優しさや思いは、最初は頑なだった雅子様の心にゆっくり、確実に歩み寄り、そしてお互いの温まった心を長い年月を掛けて高め合い、199369日という日を迎えられました。その温かいお二人の心は、それを見ていた私だけでなく沢山の方の心を温かくしたのではないかと思います。私もその時点で全ての問題が解決した訳ではないけれど、『自分は、何を目標に同じ時期の6年間を過ごして来たのか?』という自問自答に『医者になる為』とたった一つの答えが出せました。その夢を叶える為、もう一度前を見て頑張ってみようと思いました。そして、次の春に私の夢は叶いました。完璧に私の勝手な解釈ですが、お二人の温かい心が私にくれた本当に素敵で最高のプレゼントでした。
 私の叔父は、警察の方に知り合いが多いのですが、その日の記念に警護に当たった警察の方々に小さなフォトフレーム付きの¥500分のテレフォンカードが配られました。叔父は、知り合いからそれを数枚頂く事が出来たのですが、その1枚を私に譲ってくれました。今はもうテレフォンカードは日に焼けてお二人の笑顔でのパレード姿は少し色褪せてしまったのですが、今でもフォトフレームに入れて私の季節人形と共に飾らせて頂いています。本当に素敵な笑顔のお二人です。時々見ては、その当時を思い出します。
 もう30年以上も前のお話です。でも、その時のお二人のお幸せな姿を生涯忘れないでいたいと思っているバーバでした。

 

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