Jutyとの思い出 Part 4
~私の病気とJutyにとってのご主人様の変更~
Jutyを迎い入れたのは、大学に入学してすぐの4月下旬でした。直ぐに5月の連休に入り、Jutyと毎日一緒にいてそれはそれは楽しい日々でした。あっという間に連休が終わり、1年生だった私はギッシリの講義を(月)~(土)まで、通学時間1時間30分の遠方の大学に通いました。とにかく早く帰りたかった。Jutyを自宅に置いて学校にいる間は落ち着かなかったです。『もっとJutyとの時間が持てたら・・・』毎日そんな事を考えていました。加えて、音楽大学という特殊な大学に通い始めて、初めて『私は本当にここで学びたかったのだろうか?』という疑問にぶち当たりました。所謂5月病です。それでも色々な講義は楽しくて、『勉強ってこんなに楽しいんだ!』なんて、初めて思った位講義に出るのは楽しかった。でも、専攻した声楽は、日に日にやりたくなくなって来ました。講義の空き時間を使っての“レッスン小屋”と呼ばれる所でのあらゆる方向から聞こえてくる声やピアノの音に実力のない自分が怯えていました。1日練習しなければ、取り戻しに3日かかる!の受験時代からの摺り付けが身体に染み付いていて、休めないんです。やりたくなくても声を出す、発声練習をする。機械みたいに繰り返していました。今考えれば馬鹿みたい。でもその当時の思いは変えられなかった。
それでも1年生は何とか終える事が出来ました。でも、長い春休みの間に気持ちが切り替えられなかったんです。加えて、2年生になると1年生に比べて履修講義時間が減って、益々レッスン小屋での時間潰しが多くなって、益々落ち込みました。食事が摂れなくなり、眠れなくなり、痩せて行きました。高校時代は、太り過ぎだったので、大学生になって、私服が着られる様になって、『オシャレも出来るし、良いや。』くらいの気持ちでした。これが結果、良い声が益々出なくなって行き、益々歌いたくなくなり、自分の足を引っ張る結果になりました。そんな中での期末テスト。講義のテストやレポートに追われ、夜遅くまでの勉強。痩せて弱った身体で肺炎になってしまったんです。『咳が止まらない。』とは思っていたのですが、風邪以上の病気をした事がない私にはとにかく期末を乗り越えないと・・・ばかりで、ゆっくりお医者様に罹るなんて事は考えられなかったです。あと2教科の試験が終われば春休みという時に寝込んでしまいました。気付かぬ内に肋膜炎を併発していたんです。近医の先生に往診を頂き、明日知り合いの病院を受診する様に勧められました。次の日の受診では、レントゲン写真に左肺全域と右肺下2/3に胸水が貯留。ほとんど息が出来ていない状況でした。即入院、胸水穿刺の処置をして頂き、酸素マスクを付けながら一夜を明かしました。胸水穿刺を受けながら、こんなに苦しい中で呼吸していた自分が生きていられた事が不思議なくらい穿刺後は楽になりました。久しぶりにゆっくり眠れた一晩でした。
入院は、約1ヶ月。その間に残り2教科の試験も終了してしまいました。その2教科は、主治医の先生が診断書を書いて下さり、遠い学校まで姉が追試を受けられる様手続きをしてくれました。体は日に日に楽になるし、落第の心配もなくなって、だんだん暖かくなっていく病室で早く退院して『また一からやり直し!』という思いで毎日を過ごしていました。心配だったJutyは、父と母が夜は一緒に寝てくれているとの事で、また帰ったら一緒に寝られるとばかり思っていました。入院中に一度お見舞いにも来てくれて、私を見たJutyはそれはそれははしゃいでいたので、戻れば元通り・・・と思っていたんです。
退院した当日は、日中は私と私の部屋で過ごしました。夜は、心配している両親の襖を隔てた隣の部屋で休む事にしました。するとJutyは私の布団ではなく、両親の布団の部屋に行ってしまうのです。『おいで。』と声を掛けても来てくれませんでした。『今日は良いか。』は、2日になり、3日になり、大丈夫と安心した両親と離れて自室で眠る様になっても戻ってはくれませんでした。
Jutyを迎い入れた日は、父に内緒で飼う事に決めてしまったので、2週間ほど隠れて育てていたんです。ある日見つかってしまって・・・でも、Jutyを見た父は『こんなに可愛い犬がいるんだ!』と初めて見たパピヨン犬の幼犬のJutyに一目惚れしてしまったんです。でも、当日は初めて見る人にJutyは怯えてしまって近付きません。何回か会っている内に慣れて抱かれる様になり、父はご満悦でした。それでも私がご主人様で、父は知っている人くらいの距離感だった筈でした。その状態で、約1年を過ごしてきたのに、1ヶ月の入院で立場が逆転してしまいました。何処に行くのも父と一緒。退院後に商売繁盛の祈願で毎年訪れる成田山新勝寺へ行った時もずーっと父にベッタリ。犬連れでも入れて下さったうなぎ屋さんでも父の横にチョコンと座ってお店の皆様に褒められていました。そんな状況に私の方が諦めてしまいました。
Jutyの若い頃は、カゴに入れてもらって父と出勤。毎日金庫番をして、夜は父に抱っこして自宅に帰る毎日でした。歳をとってからの数年は、父が布団の上に包まりながら眠れるようにと毛布を輪っか状にして置いてくれる中で殆どの時間を寝て過ごし、母が食事を持って行くと階段の踊り場で食事を持って上がってくるのを待っていました。夕方お店の閉店時間が近づくと母と一緒に出勤。お店に立っている父に挨拶をして、その日の売り上げ整理などをしている父と母と過ごし、食事や入浴の済んだ父に抱かれて退社する毎日でした。亡くなる日の朝まで父の枕元で眠り、毎晩水を入れ替えてくれる愛用の水飲み器で水を飲み、12歳からは、乳がんと闘いながらの毎日でした。
14歳になる少し前に洗髪担当の私が、胸に板の様に広がった隆起に気付きました。初発の乳がんから周囲への浸潤の兆候でした。肺にも転移が見つかりました。もう高齢だったので、獣医師も積極的治療はかえって寿命を縮めるとの事だったので、静かに経過を見る事にしました。元々食の細い子だったのですが、それからは急に何食も食べなくなったり、少し気が向いて食べてくれたりの繰り返しでした。傍で見ている両親は忍びない毎日だった様です。“安楽死”の提案がありました。『最後は貴女が決めて。』と母に言われました。最後のお話は、後で書きたいと思います。
Jutyは14歳5ヶ月で息を引き取りました。その晩だけは、両親の布団の近くに私の布団を敷き私の傍で休んでくれました。眠れない私に時々襖を隔てて父が声を掛けてくれました。何度も起き上がってJutyを撫で続けました。そして、お別れの朝がやって来ました。その日は夏休み前の試験期間中(30歳で学生に戻り、当時33歳でした。) で、お見送りも出来ず、朝さよならを言って学校に向かいました。戻った時は、もうJutyはいませんでした。
自分が飼いたくて友人にお願いし、迎い入れた犬でした。でも、最期までお世話をし続ける事が出来ませんでした。2歳の頃から父を自分の御主人と頑なにその思いを貫いた子でした。
私も写真のママ犬があまりに可愛くて、犬を飼う事の覚悟もなく、迎い入れる心の準備もきちんとせず、飼う事での自分の生活上の拘束も考えもせず迎い入れてしまいました。時を前後して、自分の人生にとって大きな山にぶつかり、自分の問題解決すら出来ない状況の中、体を壊し入院してしまいました。その後も10年近く“自分の道”探しの毎日で、とてもお世話などできる状況ではありませんでした。幸い、身近に父という最も頼りになる人がいてくれた事でJutyを路頭に迷わす事はなく済みましたが、Jutyにとっては、本当に迷惑な話だったと思います。私は、主人としては失格でした。今もその事を仏壇に飾った写真の前で手を合わせて『ごめんね。』と話し掛けます。
これから犬を飼いたいと思っていらっしゃる方も沢山おられると思います。こんな私の体験がお役に立って、犬を迎い入れる時の心構えの一助にして頂けたらと願うバーバでした。